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日语标语翻译论文汇总200条

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日语专业的毕业论文

日语专业培养具有扎实的相应语言基础比较广泛的科学文化知识,能在外事、经贸、文化、新闻出版、教育、科研、旅游等部门从事翻译、研究、教学、管理工作的相应语言高级专门人才。下面,小编为大家分享日语专业的毕业论文,希望对大家有所帮助!

摘要:本文首先分别探讨了日语中请求句和允许句中人称代词的隐匿现象以及由其引发的学习难点,继而尝试辨析了请求句和允许句之间的差异,以期为日语初级阶段的学习打下坚实的基础。

关键词:请求句;许可句;人称代词的隐匿

1引言

众所周知日本是个岛国,其文化具有相对的封闭性,人们对周围的人和事极其熟悉,彼此具有敏锐的观察力和敏捷的理解力,因而养成了相互间心照不宣的暧昧和含蓄。另外,日本还是个单一民族国家,注重周围的人际关系,在交往中习惯于放低自己,并且认为在谈话过多地直接提起自己或对方是不礼貌的表现。金田一春彦曾经指出,日本人说话尽可能通过上下文语境体现人物的关系,而不喜欢使用人称代词。日本文化的这两个特点造就了日语中人称代词的隐匿现象,这一现象广泛存在于日语学习的初级阶段,以下本文重点探讨中国学习者在日语学习初级阶段容易混淆的请求句“~てください”和许可句“~てもいいです”中的人称代词的隐匿现象,进而辨析它们之间的意义区别。文中无特别注明出处的例句均出自国内最常见的教材《新版中日交流标准日本语》。

2请求句中人称代词的隐匿现象

表示请求或命令的句型有“~てください”和“~てくださいませんか”,它们之间的区别仅仅在于发话者客气礼貌的程度不同,前者带有轻微的命令,后者表示客气礼貌的询问,它们对应的中文译文:“请(你)做某事。”“请(你)做某事,好吗?”和中文类似,这个句型通常隐匿第二人称代词“你(们)”,文案中不会出现“あなたは”这样的主题。例如:

(1)ここに住所と名前を书いてください。/请(你)在这里填写住址和姓名。

(2)この荷物を航空便で送ってください。/请(你)用航空方式寄这件包裹。

(3)スケジュール表をファックスで送ってくださいませんか。/请(你)把日程表用传真发给我,好吗?

学习这种请求或命令的句型要注意如下几点:首先,文案中一般不会出现“~さんは”这种陈述句的主题,但是可以出现呼唤语“~さん,”,如呼唤语可以出现在例句(1)中“田中さん、ここに住所と名前を书いてください。/”田中同学,请你在这里填写住址和姓名。“

其次,既然是请求命令的文案,那么话者是发出命令或请求的人,话者要求听者做出某种动作行为,因而文案中表示行为动作的”~て“是听者的动作行为,这里尤其需要区分的两组动词是”借りる、贷す“”见る、见せる“.其中”借りてください“意思是请你(们)去借来某物,而”贷してください“意思是请你(们)借出某物。例如老师上课要用到的书,请听者同学们去图书馆借,就可以说”図书馆からその本を借りてください“老师请同学们将自己的书借出给B班同学则可以说”Bクラスの学生にその本を贷してください“,而如果话者老师请听者学生借出书给老师本人则可以说”私にその本を贷してください“,这里通常话者会将”私に“这个文案成分隐匿,简单地说成”その本を贷してください“,因而我们经常会听到话者向听者借东西时直接说”贷してください“.

而”见てください“意思是请你(们)看,”见せてください“是请你(们)出示给某人看。例如话者要求听者看护照时可以说”パスポートを见てください“,要求听者将护照出示给旁边的警察看时则可以说”警察にパスポートを见せてください“,而如果是话者要求听者出示护照给自己看则可以说”私にパスポートを见せてください“,这里的”私に“这个文案成分也通常会被话者隐匿而简单说成”パスポートを见せてください“.

最后,”~てくださいませんか“经常翻译成”你们可以~吗?“,与”~てください“一样,文案中表示行为动作的”~て“是听者的动作行为。在较为复杂的文案中,因为文案成分比较多,初学者可以直接忽略文案最后部分的”ませんか“,以便更为直观地理解文案意思。如例句(3)可以按照”スケジュール表をファックスで送ってください“这个文案意思去理解,只是多了”ませんか“会令文案显得更加客气礼貌。

3许可句中人称代词的隐匿现象

表示许可的句型主要以”~てもいい“为代表,当然还包括类似的表达”~てもかまわない“.日语存在专门表达禁止的句型”~てはいけない“,因而许可句的谓语没有相应的否定形式,如没有”~てもよくない“和”~てもかまう“这种句型。许可句型有肯定句和疑问句两种形式,分别是”~てもいいです“和”~てもいいですか“,由于存在人称代词的隐匿现象,肯定句和疑问句的文案意思有细微的区别。以下主要以敬体”~てもいいです“为例进行说明。肯定句的形式”~てもいいです“往往隐匿文案成分”我们“或”你们“.肯定句的形式是话者做出的许可,它包含两种意思,其一是规矩许可,即话者基于社会惯例或公共规则而做出的许可”我们/你们可以~“;其二是个人许可,即话者基于个人的心情或判断而做出的许可”你们可以~“.如下面例句(4)的中文意思可以是规矩许可的情况”我们/你们可以在这儿拍照“,也可以是话者个人许可的情况”你们可以在这儿拍照“;例句(5)的意思可以有上述的两种”(按规定)我们/你们可以回家了“或”(我同意)你(们)可以回家了“.可见,肯定句的人称代词可能是”我们“或”你们“,这些文案成分在日文中往往属于隐匿成分,这些文案成分在中文翻译时也常常被省略。

(4)ここで写真をとってもいいです。/这儿可以拍照。

(5)家に帰ってもいいです。/可以回家了。

疑问句的形式”~てもいいですか“隐匿的文案成分只可能是”我们“.这是因为疑问语气的许可句型表示话者在征求听者的许可”我们可以~吗?“,而”你们可以~吗?“属于请求或者命令的语气”~てくださいませんか“.因而,疑问句的形式”~てもいいですか“中表示行为动作的”~て“是话者的动作行为。如例句(6)(7)的中文翻译带上了”我(们)“则意思更为清晰明确。

(6)ここで写真をとってもいいですか。/我(们)可以在这儿拍照吗?

(7)家に帰ってもいいですか。/我(们)可以回家吗?

因为肯定句的意思既可以是”我(们)“,同时也可以是”你(们)“,因而如果是没有上下文的文案,翻译是不容易出错的,如果是一段文字中的文案,只要根据前后文脉判断即可。而疑问句中的”~て“表示的是话者的动作行为,区分两组动词”借りる、贷す“”见る、见せる“在文案中的意思是初学阶段的难点。”借りてもいいですか“意思是话者询问自己可否借入某物,”贷してもいいですか“意思是话者询问自己可否借出某物。例如学生们询问老师自己可否不买上课用书,而是去图书馆借时可以说”図书馆から本を借りてもいいですか“,学生们询问老师自己可否将书借出给B班的同学时可以说”Bクラスの学生に本を贷してもいいですか“.

”见てもいいですか“意思是话者询问自己可否观看某物,”见せてもいいですか“意思是话者询问自己可否将某物出示给别人看。学生询问老师自己可否看电视时可以说”テレビを见てもいいですか“,询问老师自己可否将电视给别人看时可以说”テレビを见せてもいいですか“,询问老师自己可否将电视给B班的同学看时可以说”Bクラスの学生にテレビを见せてもいいですか“.

综上可知,肯定句的形式”~てもいいです“的意思可以是”我们/你们可以~“;而疑问句的形式”~てもいいですか“的意思只能是”我们可以~吗?“,文案中表示行为动作的”~て“是话者的动作行为。

4请求句和许可句的意义辨析

以上本文分别分析了请求命令句型和许可句型的.基本意义和用法,这两个句型最大的共同点就是文案中人称代词的隐匿现象很突出,其中肯定形式的许可句型对于隐匿了的人称代词的限制比较宽松,根据上下文或语境可以是第一人称”我、我们大家“或者第二人称”你、你们“,不容易和请求命令句型混淆。例如中文”请你坐这儿“,最为直接的是可以对应请求命令句型”ここに座ってください/请(你)坐这儿“,但是如果使用肯定形式的许可句型”ここに座ってもいいです/可以坐这儿“也不存在意义上的冲突对立。

而其中容易混淆的是主要疑问句形式的许可句型”~てもいいですか“和表示请求或命令的句型”~てください,~てくださいませんか“.中文口语中请求和许可这两种语气有时比较含糊,要正确区分使用二者首先要区分清楚语气,例如中文”可以坐这儿吗“可能分为两种情况,它们的意义大相径庭:其一,”(你)可以坐这儿吗?“属于请求命令的语气,对应正式的中文”请您坐这儿(好吗)“,这时使用相应的请求命令句型进行翻译,例如可以翻译成”ここに座ってください“或更为礼貌客气的”ここに座ってくださいませんか“;其二,”(我)可以坐这儿吗?“属于征求允许的语气,应该运用许可句型的疑问句形式进行翻译,例如可以翻译成”ここに座ってもいいですか“.

其次,这两种句型中的”~て“的动作主体不一样,请求命令句型中的”~て“是听者的动作行为,而疑问语气的许可句型中的”~て“是话者的动作行为。例如日文”ドアを开けてください(ませんか)“句中的”开けて“是听者的行为,应该翻译成”请(你)开门(好吗)“,而日文”ドアを开けてもいいですか“句中的”开けて“是话者的行为,应该翻译成”我可以开门吗?“.

5结语

综上不难看出,本文分析的请求和允许句型的差异基本源自日文对于人称代词的隐匿现象,这是日语入门阶段的难点,如果能在此阶段勤于梳理思路,培养正确的思维习惯,必定能事半功倍地为进一步学习打下牢固的基础。

参考文献:

[1]金田一春彦。日本语[M].北京:北京大学出版社,19【第88句】:

[2]唐磊,等。新版中日交流标准日本语[M].北京:人民教育出版社,2005:170-1【第89句】:


日语专业的大学毕业论文

对日语的研究,有利于提升人们对外语的认识。以下是小编为大家精心整理的日语专业的大学毕业论文,欢迎大家阅读。

摘要:

中日属于邻邦国家,两国在文化基础层面上有着鲜明的共同性。近几年来,随着我国对日本文化及其语言进行深入分析与研究,尤其是对日本国家语言文学中的主流意识与社会文化进行了探讨,受到理论界广泛关注。本文就日语语言文学历史发展进程及其特点进行简要概述,并与日本典型的社会文化与语言文学案例相结合,对日语语言文学中蕴含着的家园意识及其特点进行深入剖析。希望对日语语言文学研究提供一定的参考依据。

关键词:

日语;语言文学;家园意识

【第1句】:前言

由于日本与我国属于近邻关系,所以两国文化发展底蕴较为深厚,共同点较为广泛。日本文化在我国悠久的历史文化长期影响与熏染下,遗留有我们很多历史文化符号与印记。但是随着时代变迁,西方国家掀起的资本主义思想潮流使日本文化受到严重冲击,西方文化印记也十分明显。所以,日本社会文化在我国历史文化和西方国家现代文化相互交融,相互碰撞下,形成了独具特色的意识形态与社会文化。随着经济全球化发展,语言文学成为我国各个高职院校日语专业学生必修课程。通过对日语语言文学主题思想、发展规律及特点进行有效分析,能够掌握日语语言文学蕴含着的主流意识及其形态,使我国日语语言文学体系更加的完善。

【第2句】:分析日语语言文学及其特点

从日语语言文学历史发展进程角度来看,远古时期,日语语言文学长期在我国悠久的.历史文化影响下,遗留由我国浓厚的历史文化气息与鲜明的文化烙印。进入二十世纪而后,日本国家挣脱了“闭关锁国”的束缚,积极引进希望国家先进的思想文化,对现代化日语语言文学带来了巨大影响。日语语言文学特点主要表现在以下几个方面:

【第2句】:1语言文学时代标记较为显著

我国汉语发音、拼写与日语有着很大差异,所以日语语言文学有着鲜明且独特的时代标记。例如,在抒情诗歌创造上,公元时期,日语抒情诗歌主要由三十一个音节组合而成,并通过短歌形式展现出来,而十七世纪,日本抒情诗歌从原来的三十一个音节缩短为十七个音节,使得骈句表现力变得更强。由此可知,日本语言文学主要是新形势与旧形式文化不断碰撞与融合下形成的。

【第2句】:2语言文学社会特征较为强烈

从早期与近代日语语言文学典型著作中可以发现,其语言文学社会特征都较为强烈,是日语语言文学在历史发展进程中形成的特点。尤其是近现代化日语语言文学著作,能够将日本国家某个时期社会状况进行充分揭露,并将国民对社会疑惑、对未来向往充分反映出来。由于日本文化具有明显的地域性特征,所以其国内语言文学会随着时代变迁而发生改变。远古时期,日本语言文学著作开始向着城市化方向发展,京都作为日本经济、经济与文化较为集中地方,所以很多日语语言文学著作都将日本京都作为创作背景。江户时期,武士被当做为日本国家新延生的贵族,其中很多参与日语语言文学创作武士,使日语语言文学重心发生了转移,这个时期经典语言文学著作主要有《古今著闻集》与《今昔物语》,其中《今昔物语》由芥川龙之介所创作,其在日本古典语言文学熏染与影响下,以历史小说作为创作题材,以国民喜而乐见的社会故事作为创作原型,并利用借古喻今方式,能够将现实与人生充分反映出来。

【第2句】:3语言文学家园意识较为浓厚

从日本国家社会传统文化发展进程中可以看出,日本国家非常注重家庭,认为家庭不仅是促进社会发展、稳定的基础,也是维系情感的纽带。所以,日本国家早期很多语言文学著作中,都具有浓厚的家园意识,尤其是以离愁、思乡作为思想主题的抒情诗歌,将人们对家庭思念、眷恋及向往充分表现出来。而从日本国家近代史来看,国民受到战争严重摧残,家园在战争中受到破坏,所以这个时期的日语语言文学,能够将日本国民对家园深深的眷恋之情充分表现出来。由此可知,日本很多语言文学著作中,都以家园作为创作题材,同时赋予了日语语言文学鲜明的创作特点。

【第3句】:分析日语语言文学家园意识及其特点

通过对日语语言文学及其特点进行深入分析,可知家园是日语语言文学创作不可缺少的一个题材,而本文也将从其创作题材出来,对语言文学家园意识进行分析与研究。日语语言文学家园意识特点主要表现在以下两个方面:

【第3句】:1具有“安宁”的象征意义

从传统日语语言文学至近现代化日语语言文学,很多日语语言文学家将家园塑造成具有“安宁”意义的象征。“安宁”不仅象征着人们安逸的生活,同时也象征着人们宁静的内心。从日本语言文学历史发展进程来看,其发展过程中并不顺利,自日本国家挣脱“闭关锁国”枷锁后,日本国家特有的农耕文化受到严重冲击,而日本社会经济发展形式也发生了很大改变。日本国家传承下来的农耕社会文化,能够给人带来安宁与安全感,当这份安宁感被破坏后,日本国家在给世界各国带去战争灾难的同时,也给国内民众带来了巨大的浩劫,这时日本国内民众对家园向往与渴望不断增长,从这个时期日语语言文学著作中能够充分体现出来。当世界二次战争结束之后,很多日本语言文学家创作的语言文学著作中仍然带有浓厚的家园悲剧色彩,由于残酷的战争,很多家庭骨肉分离,很多人失去了宝贵的生命。在二战期间,日本国家涌现出很多女性文学家,如津岛佑子,通过细腻描述方式,将自己失去家园、失去亲人悲痛之情充分抒发出来,并对家园抱以新的向往与希望。《安魂曲》由日本著名作曲家――武满彻所创作,将人们对家园安宁感的向往与渴望进行了描述。

【第3句】:2具有“缩小”的意识特点

“缩小意识”属于日语语言文学较为典型的一个特点。在日本国家,很多语言文学作家喜欢将大的认知、观念及事件缩小,即缩小至一个家园中,并采取以小见大表现手法,将其对社会感知,对人生领悟表达出来。通过这种表现方式,能够将日本国民社会生活映射出来,日本国民所向往的精致生活,从生活环境到院子布设、饮食文化,都能够将缩小条件下完美展现出来。在日本语言文学作家笔触下,能够将家庭缩小,并蕴含着浓厚的亲情,达到日本国民所向往的美好生活。而很多现代学派的日本创作家,将家园庭院作为重点描述对象,而庭院也是现代化居住文化不可缺少的一部分,从庭院规划设计到整体布置,都能够将日本国民生活观念及文化观念集中展示出来。日本语言文学著作中都塑造了很多典型“庭院”,而庭院摆设物品也具有深刻的象征含义,都集中在庭院这个小小的环境中。所以,家园中的“缩小”意识,能够将日语语言文学与社会实践进行有效结合,使得语言文学更加的真实。

【第4句】:结语

家园意识作为日语语言文学创作的重要特征,能够将日本国民对美好家园向往与追求充分体现出来。从中可以明确日语语言文学多以家园作为主要的创作题材,将日本国民思乡之情作为创作主题思想,从而引发日本国民的共鸣。因此,我国在日语语言文学研究中,可以从其家园意识角度出来,对完善我国日语语言文学研究体系具有重要意义。

日语毕业论文

日语专业的同学们,大家毕业的时候,大家知道怎么书写一篇日语论文吗?以下是小编精心准备的日语毕业论文范文,大家可以参考以下内容哦!

『平家物語』における無常観について

摘要

《平家物语》成文于日本镰仓时代,描写了平氏一家由荣华走向没落的历史。书中以保元﹑平治之乱中获胜的平家和战败的'源家之间的对比,以及源平两家争战后对平家的追讨过程为中心,生动地再现了当时处在社会变革中逐渐没落的平安贵族与开始登上历史舞台的武士阶级的社会状况。本研究,基于多次通读这部优秀的战记物语,在深刻理解作品描绘的日本中世宗教状况以及人们的宗教理念的基础上,对“无常”的观念如何贯穿作品始终,为何能够在人们心中打下深深的烙印等诸多问题进行了探讨。

关键词:平家物语;佛教;神道;无常

要旨

『平家物語』は鎌倉時代に成立した、平家一族の栄華と没落を描いた歴史物語である。保元の乱平治の乱に勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落し始めた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事にかきだしている。本研究では、この最高の軍記物語と呼ばれる物語に基づき、中に描かれた日本中世における宗教の状況やそれに対する人々の観念を解読したうえ、なぜ「無常」という感じがいつも現れ、また人々の心に生じたのかという問題を辿り、検討してみたいのである。

キーワード:平家物語;仏教;神道;無常

目次第1章序論

第2章『平家物語』について

【第2句】:1物語の成立

【第2句】:2物語の粗筋

【第2句】:3物語における仏教思想

第3章仏教の日本化

【第3句】:1神に恵まれた国

【第3句】:2藩神到来

【第3句】:3奈良時代の仏教

第4章所謂「無常観」

【第4句】:1無常観の起源

【第4句】:2『平家物語』における無常観

結論

謝辞

参考文献

第1章序論

紀元3世紀ぐらいには、すでに日本列島と中国大陸の交流があった。大国文化に対する憧れを抱えて、中国への留学生が派遣された。遣隋使、遣唐使など、時代によってさまざまな呼び名があるけれども、彼らの背負った使命や志が変わることはなかった。律法、制度の導入につれ、東南アジアに盛んでいた仏教がますます注目された。仏教の伝入がもっと前のことであったが、最初はただ貴族たちだけの信仰となっていた。最澄、空海などの留学僧のおかげで、仏教が咲き誇る花のようにだんだん日本各地に、上から下まで広がっていく。しかし、たとえ仏教の世と呼ばれる平安時代派も、いよいよその時代を迎えようとした。時は紀元12世紀半ば、平家一族の盛衰史を生き生きと描いた『平家物語』における時代である。

様々な人物を刻んだこの物語が、壮大なる戦争の場面を見せてくれる。『平家物語』のシンボルとして、無常観がよく知られている。本論文はその「無常」の解読を検討しようと思って、三つの部分になっている。第2章において、まずは物語の紹介や粗筋などを見てみた。第3章において、前回に提出した問題に応じ日本化した仏教について説明した。第4章において、「無常観」の源について探究してみて、また『平家物語』における様々な人物の例を分析した。以上の研究を通して、『平家物語』とその中に溢れる無常観に対する認識を、もっと深めることができよう。

第2章『平家物語』について

【第2句】:1物語の成立

平清盛を中心とする平家一門の興亡を描いた歴史物語で、「平家の物語」として「平家物語」とよばれたが、古くは「治承物語」の名で知られ、3巻ないし6巻ほどの規模であったと推測されている。それがしだいに増補されて、13世紀中ごろに現存の12巻の形に整えられたものと思われる。作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられているが、兼好法師の『徒然草』によると、13世紀の初頭の後鳥羽院のころに、延暦寺の座主慈鎮和尚のもとに扶持されていた学才ある遁世者の信濃前司行長と、東国出身で芸能に堪能な盲人生仏なる者が協力しあってつくったとしている。後鳥羽院のころといえば、平家一門が壇の浦で滅亡した1185年から数十年のちということになるが、そのころにはこの書の原型がほぼ形づくられていたとみることができる。

この『徒然草』の記事は、たとえば山門のことや九郎義経のことを詳しく記している半面、蒲冠者範頼のことは情報に乏しくほとんど触れていないとしているところなど、現存する『平家物語』の内容と符合するところがあり、生仏という盲目の芸能者を介しての語りとの結び付きなど、この書の成り立ちについて示唆するところがすこぶる多い。ことに注目されるのは、仏教界の中心人物である慈円のもとで、公家出身の行長と東国の武士社会とのかかわりの深い生仏が提携して事にあたったとしていることで、そこに他の古典作品とは異なる本書の成り立ちの複雑さと多様さが示されているといってよい。

【第2句】:2物語の粗筋

平安末期の日本が、まさに大きな変革や騒乱に囲まれていた。仏に仕えるため出家したがまだ政を握っている法皇と、父親に逆らうことのできない、優雅に暮らしていた貴族と政権を把握し始める武家、また兵を所有する各地の領主と領地の争いで離散になった庶民たち。さまざまな原因でこのような乱世を築いたのである。『平家物語』は、平忠盛の始めて昇殿を許された天昇元年から、建礼門院お往生の建久二年まで、約六十年にわたる平家の盛衰をその内容としたもので、史実のみによらず、想像のみによらず、史実と想像とを交わして、史書と物語との中間をいったものである。

この物語の主人公の平清盛は、その時代のおかげで出世した。安芸守からわずか十数年に、保元の乱や平治の乱を抑える手柄でついに太政大臣までにつき、そのため一族も極の栄誉を手に入れた。公卿に担当する者が十六人、殿上人が三十人余り、日本全土六十六国の中で平家の所有する領地が三十か所くらいでもあった。まさに真っ盛りといえるであろう。

一方、特権を代々受け継ぐ貴族制度が崩れつづあり、私有荘園と武装を持つ地方領主が舞台に上がってきた。『平家物語』いおける人物中、最も多いのはさすがにこれらの武人である。出征途中、竹生島に管弦する、呑気な経正が、よく書かれ散るのは風雅のためで、戦乱の間に、能登殿が大いにもてるのは、勇武のためである。この両者を重ねたものは、まさに時代の寵児で、瀬政や忠盛が特に光って見えるのはそのためである。一方、武家を代表する平家一族がその時代に活躍できるのも、各地の大名が支えてあげるために違いない。しかし、政権を握った平家は自らの階級の利益に逆らい、貴族のような生活を極めた。また京で二三百余りの少年を選って、かぶろのように髪を切り、一旦平家の御事悪しざまに申す者があれば、すぐに家に乱入し、私財雑具を追捕し、その人を六波羅殿へ捕まえ、このように天下を好きに扱うにした。後に源氏に負けたのも、誠に「盛者必衰」という言葉に当たったのであろう。

『平家物語』はこの両大武家の政権争いを巡り、様々な人物像や社会万象を生き生きと刻み、その同時に中国の歴史典故や詩歌などもよく出てくる。儒教の道徳観や仏教の宿命論が全書に貫き、平安時期武士階級の精神状況も見事に描写した。しかし常に我々の目に立ち頭に浮かべることは、やはりあの時代の仏教の実態であろう。太政大臣平清盛にしても下級武士たちにしても、彼らは自分の運命をすべて仏に預けるような気が強く感じられる。一の谷の戦いで敗退し、死ぬ前にも西に向かい「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と十念する薩摩守忠度や、焔に燃えられるように死去した入道相国。これらの描写は、仏教に対する信仰がいかに強かったのを表す他ならないのである。

【第2句】:3物語における仏教思想

さまざまな変革に迫られていた平安朝の日本は、大陸文化を積極的に吸収する一方、仏教も盛り人々の心に根強く留った。鑑真の東渡、唐招提寺の建設でますます興隆になりつつあった。中世の日本人は仏のことに莫大な関心を持ち、生活の面々にも影響された。平氏の創始者の平忠盛は、鳥羽上皇のため得長寿寺を建てから登殿ができ、一族繁栄の土台を築いたのである。各大寺の座主は必ず親王とか地位の高い公卿とかで担当され、仏教の重要さが言うまでもないことである。

貴族にも関わらず、庶民たちの敬う心も明らかに表わされていた。歌女の妓王は入道殿に捨て去られた後、世間に絶望し、ついに出家した。一時に栄華になった佛でも、「いづれか秋にあわで果っべき」という嘆きさえ出て、出家になったのである。現世が不順ならば、来世を求めた方が良い。妓王たちが出家し極楽を求めた果ては、後に後白河法皇の長講堂の過去帳にも妓王、、刀自、佛などが尊霊と記録されていた。彼らの宿願が叶えたとしても、かなり憐れむことであろう。このように仏法興隆から二三百年の間に、仏教がだんだん本土化また日本化になり、自ら独特の精神教義が出てきたのである。しかし、時は仏法衰微の時期になった。武士豪族の争いで戦争を招き、天下が不安になり続いた。源氏を潰し都から追い払ってから、平氏はまつり事を独断していた。失意した貴族や武士は相次ぎに出家し、来世の福祉を祈ることが多かった。動揺した態勢が人間を恐慌させ、諸行無常の観念もいつの間に人々の心から生じ蔓延り、仏教はこのように俗世間を離れる最もいい口実となった。

「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。驕れるものの久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ」。この哀唱をはじめとして、平家十二巻を貫くものは、無常観であり無常の哀感である。いわゆる「無常」、つもり変化の意を表し、世間の物がいつも無限の変化にあったという仏教の基本的認識である。「無常」の生まれは、日本列島独特の自然環境にも深くかかわったと思う。地震、火山、津波、日本民族は昔からこのような災害で生きていた。人間の死去、建物の壊滅、これらの全ては人の精神状況に影響し、存在することがいかに実在的でなく、幻の感覚までも出てきたのでしょう。しかし、広く伝わる仏教こそ、その無常の現れの重要な要素だと思う。なぜ大陸から伝来した仏教が日本国でこんな差異が出たのか。またその異化された仏教に対する認識は、「無常」を形成してきたのでしょか。その両者の間に、きっと何かのかかわりがあるのである。ならば、宗教の面から、その「無常」の起源を辿りしよう。

第3章仏教の日本化

【第3句】:1神に恵まれた国

長く狭くて、また海に包まれる土地、それが日本列島である。島国として、自然環境がきびしいどころか、時々地震や火山や津波の災害も起こり、結構大変であった。こんな状況で生きてきた日本民族は、言うまでもなく大自然に尊敬かつ怯える感じが生じられなくてはいられなかった。農業生産の豊作や一族の繁栄安全など、これらの不安定な要素をすべて「あるもの」の意志とされば、やがて「神」という言葉が出てきたのである。祖先の崇拝や形のない霊を祭る中で、自然の大いなる力に恵まれているという気持ちも抱えられてきた。『古事記』の編纂により、始めて文の形で日本国と日本人の由来の伝説などを述べ、神の子孫としての誇りが明らかである。

祖先や自然神を尊崇しながら形成したものは、民族宗教であった。それは他の民族の宗教と同じく、最初は単に村全体の繁栄や安全のため祈った行事であった。村人は神社を作り、そこで祭りを行うことにした。古墳時代後期になると、農業生産の進みにより社会の変化が大きかった。家族、氏族などが生まれ、それに対して相応の氏族神も誕生したのである。にもかかわらず、信仰される神が変わっても、その祈りの本質は変わらなかった。こういう時期の民族信仰は、まだ個人的な「福を招き、禍を消す」という念願を実現するために存在していて、教義や理念などは全くなかった。無知な人々は厳しい生存状況で生きられるため、常に神に恵まれるというような感じが生じた方が、心の安らかさができるでしょう。これは最初の「神道」というものである。やがて日本社会の発展に伴い、国家の形で政を処理するには、もっと優れた制度が望ましかった。海の向こう、大陸の中国から国政を学ぶ同時に接触した新たな宗教――仏教も日本の舞台に上げたのである。

【第3句】:2藩神到来

紀元522年百済明王は使節を派遣、日本に仏像を献じた。よって、仏教が朝鮮半島から正式的日本へと伝わってきた。『日本書紀』によると、その献上した仏像を祭るかどうかについて、当時の欽明の大臣たちは激しい論争に陥った。崇仏派の蘇我氏は「諸外国が尊敬する以上、わが日本国も例外なしに崇めるべし」と述べたけれども、一方排仏派の物部氏は「我が国が天照大御神に守られているながら、また蕃神などを崇拝することは、カミの怒りを招く恐れがある」と強く反発したのである。両大派閥の対立は五十年あまりという、長い時間に続いた。仏教の初登場が激しい反対の声に遭遇したのは、上記の言うとおり本来民族宗教がすでに存在しているほか、当時の政治体制にも深くかかわっていた。朝廷を左右した力は、豪族保守派を代表する物部氏や、新興貴族を代表する蘇我氏であった。前からも帰化人や大陸文化に接触し先進文化に影響された蘇我氏は、仏教を引き入れる機会で、物部氏との闘争に劣勢に処する一族の権力を固めようとした。しかし、伝統権威や民族宗教を支柱とした物部氏は、外来神の仏の伝来に対しては必ず反対の声を響かせるしかなかった。それにもかかわらず、歴史の進むプロセスはいつも止まることがないのである。どんどん政を独断してきた物部氏に、やがて皇室からの不満が出てきた。聖徳太子と手を組んだ蘇我氏は物部氏を潰してから、新たな宗教――仏教がようやく日本全土に伝わることができた。

【第3句】:3奈良時代の仏教

すでに天下へと仏教が広げられ、ならば万民に信仰させ、国の安泰のため仏法を発展向上させるべきである。しかし、事実はそうではなった。国家を守護し制を固められると宣伝された仏教が、最初からも政治宗教となった。朝廷に守られ、お寺などがよく町の周辺で建てられる故「都会仏教」とも呼ばれた。興隆期となった奈良時代の日本仏教は、インドと中国での伝統仏教と違い、基本的な戒律さえも離れ、僧侶は民間へ伝教するようなことをせず、単なる貴族たちに仕えるだけである。ついに国の政に手を出すこともあり、朝廷を左右する勢力となってきた。こういう時期の仏教は新たな事物として政権争いに利用され、これも後に仏教の日本化の兆候となったわけである。しかし、寵愛を一身にしても、所詮外来宗教や政治道具である。律令国家の確立に伴い、の力がますます高き、蘇我氏一族を始末してからやがて君臨するようになった。伝統権威を代表する神道も言うまでもなく新たな高位に置かれた。大化の革新に制定した「大宝律令」によると、神の祭りなどを主管する官吏はから直々の任命、太政大臣同級の者であるが、仏教諸事を処理する機構はただただ治部省所轄の玄蕃寮であった。神高仏低の状態における仏教がよい発展と権力の拡大を求めるには、やむを得ず神道にしたがうことにした。その表現の一つが神社で経文の朗読を許し、いわゆる「神前念仏」である。

初期仏教がつよい政治性を持っているのを除き、民間へ広がることのできないもう一つの原因は、人々固有の観念そのものである。宗教というと、それが現世のことを第一に、生活の安定さや幸せさを祈るはずだと思われた。ですから仏教の来世主義、死後の世界に憧れる考えが一時に納得されるわけはなかった。一方、元来ただ神社に参ることで宿願をかなえることが可能であるが、もし仏を信じるならば、山ほどの戒律や決まりを守らなければならないという恐れもあり、あまりにも実用ではなかった。これはさまざま不確定な要素に囲まれ、尊崇や冷遇の立場にあった前途不明の奈良時代仏教である。

第4章所謂「無常観」

【第4句】:1無常観の起源

「神」と「仏」の関係転換がただ二三百年かかったといっても、その過程はかなり複雑とは言えよう。いつも原始神道の感化で生きてきた庶民たちにとって、きゅうに別の「神」に信じさせるのは考えられないと思う。固有的な考えを破りにくいので、こういう時に観念転化は必要とする。『平家物語』を読むと、「熊野権現」、「八幡菩薩」などの言葉がよく見られる。特に比叡山の「山王権現」がなかなか権威をおち、山門衆はいつも神與振の形で朝廷の命令に逆らうことがあり、朝廷を従わせる。日本の諸神に菩薩号を与え、菩薩の神力をつける新たな有力神を作ったわけである。これが本地垂迹である。「本地」即ち物の源や本来面目、ここは仏の本体を表す。「垂迹」は極楽の仏が万民を救うためあるものを借り日本で現れることを指す。そしてその借りものが日本の元来に存在している「神」である。日本の神々は、本々仏の恩恵を人たちに賜るため、現れる仏の「分身」である。

本地垂迹の形で、仏教と神道の衝突を最大限度に下げることができた。人々の固有の信仰を潰せずに仏教の信仰へと導き、両者に対する信仰を折衷し一つの信仰体系として再構成することである。乱世に生み出した「無常」、仏教から出てきた往生思想、これらを交わして生まれるものは、「無常観」だと思う。

【第4句】:2『平家物語』における無常観

前にも「無常」の意味を解釈したが、それはかなり簡単で、なかなか理解できないであろう。実は、論理的なことをほうっておいて無常観つまり、何時も変化している現世に対して厭きを感じると言えよう。この厭きを積んだうえ、不満や辛さも出てくる。一旦そうなると、来世や未知の極楽世界に憧れることもやむを得ずに生じる。ここの「無常」は単なる乱世に対する動揺不安に気になり、世の中のことに信念を失ったばかりではない。中国でもどの国でも、昔には必ずある揺れる時期があるに違いない。その時の人間は、あくまで厭世という感情が出てくるだけである。しかし日本中世における「無常」は、それなりの特質があると思う。その表現の具体化は出家、隠遁ということである。前回の述べたように、奈良時代から神道の陰に置かれた仏教であるが、教理と精神実質のある宗教として決してそのままではいられなかった。神道が仏教の戒律などをかり、自らを充実していこうとして、神の御前の念仏を許したわけである。しかし、実は仏教こそこの絶好の機会で宣伝されることができた。神仏が同所で、神即ち仏、仏つまり神というような錯覚は民衆の心に留まり、個人の利益を求めるために祈るなら、どんな神像に頼んでもよいではないかと思われた。

この溶け合う中で、一番影響されたのが人々の考え、特に死生観そのものである。これらの代表的な例として、『平家物語』に登場した熊谷次郎直実をあげることができよう。無骨の武士である直実は、功名心から敵の頭を切り、武勲をあげることに全精力を傾け罪悪感とは無縁なや武士的な人生を送っていた。しかし、「敦盛最後」にあるように、一の谷で、直実は彼の子供の小次郎と同年と思われる敦盛の首を、泣く泣くに切ってしまう羽目になる。その後、直実の人生に影を落としたものは、殺生を犯した者の罪業観と罪障観であった。それが彼の出家した原因とも考えられている。また、『平家物語』巻十の「戒文」を参考し、平重衡と法然上人の交渉から、重衡の来世の死生観についてみてみよう。三位中将重衡は南都焼討で悪名高いが、治承四年十二月に平家軍は南都の敵を攻撃している最中に、図らずに東大寺や興福寺などの諸事を焼いてしまった。その後、重衡は墨俣川の戦いや水島の戦いで勝ったが、一の谷の戦いで捕まえられ、鎌倉へ護送されてしまう。彼は鎌倉へ護送の前には、法然を招いて出家しようと思った。南都の諸寺を焼き払ってしまった重衡は、罪の意識を感じ、往生への道が完全に閉ざされてしまったことを自覚した。しかしながら、どうしてもその罪障観から救済されたく、善知識である法然上人に少しの望みを託したわけである。意外なのは、ただの「一声称念罪皆除」と念すれば、何の罪でも消えていくと重衡に明快に答え、浄土宗の基本理念を表したのである。『平家物語』では、この世を無意味だとする精神が、往々にしてこの世を離れがたいものとする精神に圧倒されているのを次々の叙述の中に見ることができると思う。小松殿の息子維盛が何とかして山伝いに京都へ上がって恋しい妻子にもう一度会いたいが、生捕りになった重衡のような目には会いたくない、いっそここで出家して、火の中へでも水の底へでも入りたいと思う、という意味のことを言うと、それに対して高野聖滝口入道が「夢幻の世の中は、とてもかくても候ひなん。長き世の闇こそ心受かるべう候へ。」と、言い聞かせるところがある。そこでは、この世を「夢幻の世の中」などと言って無意味なものとする精神が、優位を占めている。維盛の妻子にもう一度会いたいという気持ちは、それを持って現世的なものへのいたずらな執着だとする仏教思想によって、抑えられている。そのあたりは一応「断ち切る」物語の様相を見せている。

これですこし分かるようになるであろう。中世、平安時代になると、仏教がようやく「神高仏低」の状態から出て、逆に「神低仏高」のように転換された。宗教の重心が変え、それに導き日本にも適切な理論が望ましかった。一番代表的なのが法然の輝いた浄土宗である。「称名」念仏という専修念仏を説いて、仏教の広がりに極大の役割を果たした。往生することがいかに簡単なことなので、信ずる者も多くなり、尊君思想をいつも心の中に置き死を恐れることのない武士たちさえも出家などを行い、来世を求める。往生を念じれば現世に対する不信がもっと深く、極楽を望めば無常についての信念がさらに強く。わずか二三百年で、まるで人々の考えが全く違い、仏教の思想が完全に人たちの頭に染み込んでいたというような気がする。しかし、神道の働きをなくしては考えられなく、むしろ神道の土台があるこそ、こんなに速やかな達成ができたのである。

結論

『平家物語』は庶民、貴族、武士、さまざまな人物像を生かし、彼らの運命の起伏を描写して、その中に貫く「無常観」を訴えるのである。神仏の融合は日本中世における特別の現象で、自分の国の未熟な宗教文化を守り、さらに良い発展を遂げようとする考えで、仏教を利用したのである。神仏習合の産物として、無常の思想が結構長い間に日本人の考えを抑えた。小論はこのような検討を通じ、「無常観」というのが、単なる現世に不満や失望を混じる無常ではなくて、それがまた日本化した仏教の思想を吸収してから、往生の考えを加える来世に憧れる宿命論だということが分かった。このような宗教理念は、日本の中世に深く影響を与え、日蓮宗や真言宗などの派閥も形成してきた。素晴らしいことに、日本民族はこのようにいつも積極的にすぐれたことを取り込み利用したおかげで、どんどんよい国家になってきたのではなかろうか。

謝辞

四ヶ月を経て、多くの方々のご指導及びご協力のお陰で、順調に本論文を書き上げることができました。心より感謝の意を述べさせていただきたいと思います。

まず、この四年間にいろいろとお世話になって、日本語学部の先生方々に厚く御礼を申し上げます。

そして、本論文を書いている間に、テーマの選定から論文の構造まで、指導教官である李冬松先生に大変貴重なご意見をいただき、先生のなみなみならぬご協力があるこそ、論文をうまく完成することができました。ここで感謝いたします。

また、小論を審査し、答弁会にご出席の先生方に厚く感謝の意を申しあげます。

最後に、この場をお借りして、いつも応援してくれた先輩たちや友達にも、感謝いたします。

参考文献

[1]《平家物语图典》上海三联书店20058

[2]周启明、申非译《平家物语》人民文学出版社19846

[3]西乡信纲《日本文学史》人民文学出版社1978

[4]石田一良『日本文学史』神奈川東海大学出版社1994

[5]花山信騰『日本の仏教』三省社19847

[6]松井嘉和『日本文化史』凡人社19955

[7]石田一良『カミと日本文化』ぺりかん社1983

[8]山折哲雄『日本の神々の始原』平凡社1995

[9]川崎庸之『日本仏教の展開』東京大学出版会1982

[10]方海燕《论日本神道教的现世性特征——以中世以前神道和佛教的相互关系为中心》日语学习与研究2007,2:39-43

日语学科毕业论文

日语学科方面的研究有利于帮助学生们更好地认识日本的语言文化。下面是小编推荐给大家的日语学科毕业论文,希望大家有所收获。

摘要:

中日属于邻邦国家,两国在文化基础层面上有着鲜明的共同性。近几年来,随着我国对日本文化及其语言进行深入分析与研究,尤其是对日本国家语言文学中的主流意识与社会文化进行了探讨,受到理论界广泛关注。本文就日语语言文学历史发展进程及其特点进行简要概述,并与日本典型的社会文化与语言文学案例相结合,对日语语言文学中蕴含着的家园意识及其特点进行深入剖析。希望对日语语言文学研究提供一定的参考依据。

关键词:

日语;语言文学;家园意识

【第1句】:前言

由于日本与我国属于近邻关系,所以两国文化发展底蕴较为深厚,共同点较为广泛。日本文化在我国悠久的历史文化长期影响与熏染下,遗留有我们很多历史文化符号与印记。但是随着时代变迁,西方国家掀起的资本主义思想潮流使日本文化受到严重冲击,西方文化印记也十分明显。所以,日本社会文化在我国历史文化和西方国家现代文化相互交融,相互碰撞下,形成了独具特色的意识形态与社会文化。随着经济全球化发展,语言文学成为我国各个高职院校日语专业学生必修课程。通过对日语语言文学主题思想、发展规律及特点进行有效分析,能够掌握日语语言文学蕴含着的主流意识及其形态,使我国日语语言文学体系更加的完善。

【第2句】:分析日语语言文学及其特点

从日语语言文学历史发展进程角度来看,远古时期,日语语言文学长期在我国悠久的历史文化影响下,遗留由我国浓厚的历史文化气息与鲜明的文化烙印。进入二十世纪而后,日本国家挣脱了“闭关锁国”的束缚,积极引进希望国家先进的思想文化,对现代化日语语言文学带来了巨大影响。日语语言文学特点主要表现在以下几个方面:

【第2句】:1语言文学时代标记较为显著

我国汉语发音、拼写与日语有着很大差异,所以日语语言文学有着鲜明且独特的时代标记。例如,在抒情诗歌创造上,公元时期,日语抒情诗歌主要由三十一个音节组合而成,并通过短歌形式展现出来,而十七世纪,日本抒情诗歌从原来的三十一个音节缩短为十七个音节,使得骈句表现力变得更强。由此可知,日本语言文学主要是新形势与旧形式文化不断碰撞与融合下形成的。

【第2句】:2语言文学社会特征较为强烈

从早期与近代日语语言文学典型著作中可以发现,其语言文学社会特征都较为强烈,是日语语言文学在历史发展进程中形成的特点。尤其是近现代化日语语言文学著作,能够将日本国家某个时期社会状况进行充分揭露,并将国民对社会疑惑、对未来向往充分反映出来。由于日本文化具有明显的地域性特征,所以其国内语言文学会随着时代变迁而发生改变。远古时期,日本语言文学著作开始向着城市化方向发展,京都作为日本经济、经济与文化较为集中地方,所以很多日语语言文学著作都将日本京都作为创作背景。江户时期,武士被当做为日本国家新延生的贵族,其中很多参与日语语言文学创作武士,使日语语言文学重心发生了转移,这个时期经典语言文学著作主要有《古今著闻集》与《今昔物语》,其中《今昔物语》由芥川龙之介所创作,其在日本古典语言文学熏染与影响下,以历史小说作为创作题材,以国民喜而乐见的社会故事作为创作原型,并利用借古喻今方式,能够将现实与人生充分反映出来。

【第2句】:3语言文学家园意识较为浓厚

从日本国家社会传统文化发展进程中可以看出,日本国家非常注重家庭,认为家庭不仅是促进社会发展、稳定的基础,也是维系情感的纽带。所以,日本国家早期很多语言文学著作中,都具有浓厚的家园意识,尤其是以离愁、思乡作为思想主题的抒情诗歌,将人们对家庭思念、眷恋及向往充分表现出来。而从日本国家近代史来看,国民受到战争严重摧残,家园在战争中受到破坏,所以这个时期的日语语言文学,能够将日本国民对家园深深的眷恋之情充分表现出来。由此可知,日本很多语言文学著作中,都以家园作为创作题材,同时赋予了日语语言文学鲜明的创作特点。

【第3句】:分析日语语言文学家园意识及其特点

通过对日语语言文学及其特点进行深入分析,可知家园是日语语言文学创作不可缺少的一个题材,而本文也将从其创作题材出来,对语言文学家园意识进行分析与研究。日语语言文学家园意识特点主要表现在以下两个方面:

【第3句】:1具有“安宁”的象征意义

从传统日语语言文学至近现代化日语语言文学,很多日语语言文学家将家园塑造成具有“安宁”意义的象征。“安宁”不仅象征着人们安逸的生活,同时也象征着人们宁静的内心。从日本语言文学历史发展进程来看,其发展过程中并不顺利,自日本国家挣脱“闭关锁国”枷锁后,日本国家特有的农耕文化受到严重冲击,而日本社会经济发展形式也发生了很大改变。日本国家传承下来的农耕社会文化,能够给人带来安宁与安全感,当这份安宁感被破坏后,日本国家在给世界各国带去战争灾难的同时,也给国内民众带来了巨大的浩劫,这时日本国内民众对家园向往与渴望不断增长,从这个时期日语语言文学著作中能够充分体现出来。当世界二次战争结束之后,很多日本语言文学家创作的语言文学著作中仍然带有浓厚的`家园悲剧色彩,由于残酷的战争,很多家庭骨肉分离,很多人失去了宝贵的生命。在二战期间,日本国家涌现出很多女性文学家,如津岛佑子,通过细腻描述方式,将自己失去家园、失去亲人悲痛之情充分抒发出来,并对家园抱以新的向往与希望。《安魂曲》由日本著名作曲家――武满彻所创作,将人们对家园安宁感的向往与渴望进行了描述。

【第3句】:2具有“缩小”的意识特点

“缩小意识”属于日语语言文学较为典型的一个特点。在日本国家,很多语言文学作家喜欢将大的认知、观念及事件缩小,即缩小至一个家园中,并采取以小见大表现手法,将其对社会感知,对人生领悟表达出来。通过这种表现方式,能够将日本国民社会生活映射出来,日本国民所向往的精致生活,从生活环境到院子布设、饮食文化,都能够将缩小条件下完美展现出来。在日本语言文学作家笔触下,能够将家庭缩小,并蕴含着浓厚的亲情,达到日本国民所向往的美好生活。而很多现代学派的日本创作家,将家园庭院作为重点描述对象,而庭院也是现代化居住文化不可缺少的一部分,从庭院规划设计到整体布置,都能够将日本国民生活观念及文化观念集中展示出来。日本语言文学著作中都塑造了很多典型“庭院”,而庭院摆设物品也具有深刻的象征含义,都集中在庭院这个小小的环境中。所以,家园中的“缩小”意识,能够将日语语言文学与社会实践进行有效结合,使得语言文学更加的真实。

【第4句】:结语

家园意识作为日语语言文学创作的重要特征,能够将日本国民对美好家园向往与追求充分体现出来。从中可以明确日语语言文学多以家园作为主要的创作题材,将日本国民思乡之情作为创作主题思想,从而引发日本国民的共鸣。因此,我国在日语语言文学研究中,可以从其家园意识角度出来,对完善我国日语语言文学研究体系具有重要意义。

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